笠置寺について

笠置寺について
そびえ立つ、高さ15mの巨石。岩肌に刻まれていた「弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)」のお姿は消えていますが、いまも残る光背が往事をしのばせてくれます。
巨石を御本尊とおまつりする笠置寺は、弥生時代には、岩そのものが神となり、奈良時代に東大寺お水取りの起源といわれる「正月堂」が建立され、また、山岳信仰の修行場となりました。
平安・鎌倉時代には、末法思想の広がりにより、弥勒菩薩の霊場として、京の都からの「笠置詣で」が行われ、南都仏教界の高僧、解脱上人を迎え、最盛期となりました。
しかし、後醍醐天皇 南朝の都となり、幕府方との戦乱の地となり全山焼亡。以後復興し、現在の姿となりました。


笠置寺の歴史

奈良時代(寺院の創建)

笠置山の信仰の歴史は古く、弥生時代には巨石を神と崇拝する「磐座(いわくら)信仰」の聖地となりました。
やがて奈良時代になると、巨石には仏が刻まれ、礼拝堂や数多くの寺院が建立され、巨石群は山岳信仰の修行場となり、現在に続く、笠置山の原型ができあがりました。
南都仏教界、特に東大寺との交流は深く、大仏殿建立の際には、良弁和尚・実忠和尚によってお水取り、「観音悔過(かんのんけか)の法」が当山正月堂で始められたと伝えられています。


天智天皇 皇子が鹿狩りに訪れ、災難に遭う。

天人によって、弥勒菩薩像が刻まれる。

諸堂が描かれた、最盛期の境内。

東大寺 良弁和尚、
笠置の龍穴で雨乞いの儀式を行う。

実忠和尚によって、
観音悔過の法要が行われる。
鎌倉時代(解脱房 貞慶上人の隠棲)

聡明であり、興福寺において将来が約束されていた藤原貞慶(解脱上人)(1155〜1213)は、当時の南都仏教界の風潮に疑問を持ち、お釈迦様への篤い信仰心によって南都と別れを告げ、笠置山 般若臺(はんにゃだい)へと居を移されました。
笠置上人とも呼ばれるように、隠棲してからも活躍された上人は、後に笠置山から海住山寺(現 木津川市加茂町)に移られました。


興福寺から解脱房貞慶上人が隠棲されました。

解脱上人により、般若臺が整備されました。
建武の中興(後醍醐天皇の行幸 元弘の戦乱)

1331年8月(旧暦)、東大寺を頼りに京都を離れた南朝 後醍醐天皇は、東大寺が一枚岩となり得ない事を知り、鷲峰山(相楽郡和束町)を経て笠置山へ。9月29日の落城までの約1ヶ月間、笠置山は、鎌倉幕府軍との壮絶な戦いの場となりました。
後醍醐天皇方には足助次郎重範(あすけじろうしげのり)公や楠正成(楠正成)公が味方しましたが、幕府軍の多勢の前に全山焼亡、後醍醐天皇は有王(綴喜郡井手町)で捕らわれの身となり、隠岐に流されたのでした。
天皇は笠置山にて「うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山の もみじをぞみる」と詠まれました。


戦場となった笠置山。

「南の木」天皇は夢のお告げで楠正成公と出会う。

足助次郎重則公が弓を射、
本性房が岩を投げる。


山内のご案内

笠置寺には本堂 正月堂をはじめ、大師堂、毘沙門堂、椿本護王宮、春日明神社、稲荷社、鐘楼、文化財収蔵庫と、堂宇が点在し、また、巨石を巡る、奈良時代に開かれた800mの修行場は、遊歩道として整備され自然を楽しむ場となっています。


笠置寺略記

笠置寺略記

笠置寺の創建は古く、すでに2000年前から笠置山の巨石は信仰の対象となっていた。このことは笠置山の中心をなす大岩石の前から弥生時代の有樋式石剣が発見されたことによってわかる。しかし実際に建物が建てられ人が住み着いたのは1300年前である。1300年前、東大寺の実忠和尚、その師 良弁僧正によって笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、その仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えたのである。平安時代 永承7年(1052)以後、世の末法思想の流行とともに笠置寺の磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受けたのである。鎌倉時代 建久2年(1191)藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者として、その運動を笠置寺から展開するとき、笠置山は宗教の山、信仰の山として全盛を極めたのであった。しかし元弘元年(1331)8月27日に倒幕計画に失敗した後醍醐天皇を当山に迎えたことにより、攻防1ヶ月、ついに笠置山は全山焼亡。以後、室町時代に少々の復興をみたが、江戸中期より荒廃。ついに明治初期に無住の寺となった。明治9年、丈英和尚狐狸の住む荒れ寺に住して笠置寺の復興に尽くすこと20年、ようやく今日の山容となったのである。

The short history of Kasagi Dera ( Kasagi Temple )

The short history of Kasagi Dera ( Kasagi Temple )
Kasagi Dera has a long history. About 2000 years ago,the big rocks of Kasagi Yama ( Mt. Kasagi )were regarded as religious symbols by the people. Years ago, a part of a Yuhi-style stone sword was found in front of one of the big rocks. This paticular kind of stone sword presumed to have been used in the Yayoi Period.
About 1300 years ago, people gradually settled in the Kasagi Yama area. In the years that followed, Jiichu Wajou ( Priest Jiichu ) of Toudaiji Temple and his master Ryouben Soujou ( Great Priest Ryouben ) carved the images of Buddha on the face of the big rocks. Kasagi Yama became very famous as the heart of learning Buddhism.
During the Heian Period, after Eisho 7 ( the 7th year of Eisho, in 1052), Mappo Shisou ( the concept of Mappo ) spread all over Japan. Mappo Shisou is one of the Buddhist theories:2000 years after the death of Buddha, everything in the world will become worse and worse. The people of that time thought that the Mappo Period would begin in 1052. And the images of Buddha on the big rock in Kasagi Yama ( these images of Buddha are called Magaibutsu ) became the symbol of Buddhism among the people. At that time,these images were thoght to have been carved by God. Kasagi Yama became the place for spiritual training.
During the Kamakura Period, in Kenkyu 2 ( the 2nd year of Kenkyu, in 1191 ), Fujiwara Joukei ( later he was called Gedatsu Shounin ) launched a campaign to change of practicing Buddhism at Kasagi Dera. This was the most glorious time for Kasagi Dera in its history. Henceforth, Kasagi Yama became the important site of the campaign and became very popular among the people.
On August 27th in Genkou 1 ( the 1st year of Genkou, in 1331 ), Emperor Go Daigo, who attempted to usurp power from the Kamakura shougunate but failed, escaped into Kasagi Dera. For about a month, these was a battle between Emperor Go Daigo and the Kamakura shougunate. At the end, Emperor Go Daigo lost and retreated to Yoshino Yama. Only the burnt ruins of Kasagi Dera remained.
During the Muromachi Period, Kasagi Dera recovered a little, but in the middle of the Edo Period, it gradually deteriorated and at the beginning of the Meiji Period, no one lived in Kasagi Dera.
In Meiji 9 ( the 9th year of Meiji, in 1876 ), Jouei Wajou (Prist Wajou ) began to live in Kasagi Dera. He tried to rebuild the temple. After 20 years, his efforts fulfilled, Kasagi Dera was restored at last.

笠 置 寺 略 记

笠置寺的创建历史悠久、早在2000年前笠置山的巨岩以被作为信仰的对象。在以笠置山为中心的大岩石之前就发现了弥生时代的有樋式石剑。在1300年前随着居民的居住人数不断增加,建造了此寺。
1300年前东大寺的实忠和尚、和他的师傅良弁僧正在笠置山上的大岩石上雕刻了佛像后,使之以佛像为中心笠置山整体成为了一块大型的修炼场所,而且一直繁衍了下去。
平安时代永承七年(1052)以后随着末法思想的流行,笠置寺的大磨崖佛被世人称为天人雕刻,更加成为了信奉的对象。
鎌仓时代建久二年(1191)藤原贞庆后来的解脱上人作为日本宗教的改革者,在笠置寺开展了一系列运动,把笠置山作为宗教之山,信仰之山,使之迎来了它的全盛时期。
但是、元弘元年(1332)8月27日,推翻政府的倒幕计划失败后后醍醐天皇把笠置寺作为防御之地,经过一个月的抵御后以失败告终,同时也给笠置山带来了整座山烧毁的灾难。
以后室町时代虽然有了少许的复兴但是江户时代中期以后不断荒废,到了明治初期变成了无住持的寺院了。
明治九年丈英和尚号狐狸移住到荒废的笠置寺后全力开展了复兴运动,近20年后才有了今日的面貌。